在来雑穀

古事記では、高天原を追放されたスサノオに料理を振る舞う神としてオオゲツヒメが登場する。

しかしスサノオは、食事の用意をするオオゲツヒメの様子を覗き見し、鼻や口、尻から食材を取り出し調理する姿を見て「そんな汚い物を食べさせていたのか」と怒り、オオゲツヒメを殺してしまった。すると、殺されたオオゲツヒメの頭からは蚕が、2つの目からは稲が、耳からは粟が、鼻からは小豆、股からは麦、尻からは大豆が生まれた。それをカミムスヒの神が拾い集めて、人々の食べ物の種とした、という物語である。

つまり、穀物栽培がどうやって始まったのか、その起源を説明していると考えられるわけですが、本ページで注目するのは、ここで紹介されている「稲」以外の穀物が、焼畑がおこなわれていた地域の作物と、栽培の構成が、ほとんど一致していること。この神話も、おそらく焼畑の伝統に基づいたものでしょう。古事記が編纂されたのは奈良時代ですから、伝統的な焼畑のスタイルは、基本的には奈良時代のはじめにはもう完成して確立されていたと考えて問題ないのではないでしょうか。アワを中心にヒエ、ソバなどの雑穀類、大豆、小豆などの豆類、そういった作物構成が、伝統的な焼畑を特色づけており、それが以後、千年以上続いていたわけですから、非常に安定性が高い作物の組み合せだった、と言えるのだと思います。

2023年に焼畑実践復活が実現できた奈良田の焼畑には春焼き(5月上旬頃の火入れ)と夏焼き(7月下旬〜8月上旬頃の火入れ)とがあり、春焼きでは、アワ(火入れ初年)→小豆もしくは大豆(火入れ翌年)→アワ(火入れ3年目)→休耕(まれに4年目に豆類を播種し、その翌年から休耕となるケースもあります)のサイクル、夏焼きでは、ソバ(火入れ初年)→アワ(火入れ翌年)→休耕(火入れ3年目から)というサイクルが確立されていました。